中原弘子さんに聞く
「赤村地元学」というテーマで、赤村の人々や歴史、文化を少しずつ発信していきます。
地元に学ぶことはとってもたくさんありますね。
第一弾は、お世話になっている中原弘子さん。
中原弘子さん (2008年4月7日インタビュー)
特産物センター会長
好きな食べ物:焼き魚 イワシが好き
好きな音楽・曲:18番は「北の居酒屋」
座右の銘:「頼まれたら嫌とは言わない」(巡りめぐって自分に返ってくる。自分のためにもなるから)。

特産物センターの会長で、赤村の顔でもある中原さん。インタビューにも快く応じてくれました。
中原さんは昭和6年生まれ。77歳。北九州門司の生まれ。
父親の実家が赤村で、終戦の年に赤村に戻ってきたという。
「玉音放送を家で聴いた覚えがあるね。その頃は女学校の2年だった。近所のモンも集まって、終戦の知らせを聞いた」と。
中原さんは教員として33年働いたという。
「赤に戻ってから女学校に3年通い、昭和25年に教師になった。最初は川崎小学校、最後の20年間は勾金中学校だったよ。音楽の教師をしていてね、私はピアノが好きだったよ。」
――何故教師になろうと思ったんですか?
「私の家系はね、教師の家系なんよ。母は私に医者になったら良いと言ってくれていたけれども、家が貧乏だったからね。東京に出て医者の学校に行くなんて出来なかった。安定した生活を送るなら公務員が言いなんて話もあってね。それで教師になったのね。だから好きでしょうがなくて音楽の教師になったんじゃないんだよ。でも、音楽は好きだったね。門司の育った家の近所にお金持ちがいてね。家にピアノがあったんよ。私はしょっちゅうピアノのところに遊びに行ったさ。」
――なるほど。好きでなったわけじゃないんですねぇ。じゃあ、その時に自分がなりたかった職業って何ですか?
「ワタシャね、医者になりたかった。その当時「女医の記録」という本があったんだけど、そんな本を一生けんめい読んだよ。それで、医者になりたいと思っていたね。これも母の影響が大きいかもね。私の母は「人の役に立つこと」「人助けをすること」そんなことばっかししてきた人だったからね。ワタシャね、母の影響はとても大きく受けているのよ。部落差別や貧しい人への差別も絶対に許さない人だったね。」
――今、中原さんが携わっている食の分野へはいつから入ったのですか?
「教職を辞めたのが53歳の時でね。人間関係で苦労したり、身体が弱くなっていたりしてね。その時に母が「今までは組織の中で働いてきたのだから、今度は地域に入っていきなさい。地域の役職なんかも積極的にやりなさい」って言ってくれたんよ。そんなこともあって、辞めてすぐに婦人会に入ってね。農協女性部の担当になったんよ。その流れで県の役員になってね。「女性も農協の理事や総代になろう」という女性の地位向上運動にも関わった。」
――女性部に入って、食の分野で活動し始めたんですか?それとも教師をしていた時から食への関心はあったのですか?
「食への関心の原点はねぇ、やっぱり母なんよ。母は身体が弱くてね。でも、断食をして身体を良くしていったような人だった。その当時は珍しい高圧鍋ってやつで玄米を炊いてね。肉より魚、大豆をたくさん取る、塩っけの強いものは避けるという食生活だった。魚なんかも高圧鍋で炊いてさ、骨まで食べてたよ。徹底した玄米食。私もそれが好きだったね。
それにね、農協女性部に入ったら否が応でも食に関わるんよ。その活動の中でいろいろな人に会ってね。それこそ眼からウロコが落ちるような経験もたくさんしたね。女性部の活動で思ったのは「3人いれば何かできるね」ということ。実際、「はづき会」というグループで活動をしたり、そこから派生してモチの加工部を作ったりいろいろしたねぇ。」
――特産物センターが出来るのもその頃ですか?
「そうそう。DoYou農?のイベントの時に「朝市の会」というグループで田植え、稲刈りのイベントの時だけ野菜を売っていたんよ。そしたら、結構売れるがぁ。
店が欲しいねぇ、なんて話をしていて、働きかけてそれが現実になったんよ。でもね、当時は「そんなことして売れるわけなかろう」なんてことも言われたよ。直売所を立ててくれた関係者は「半年持たないかと思った」何て後で言ってたよ。ハッハッハァ。
でも、売れてね。手狭になって今の大きい特産物センターになったわけ。もう13年ぐらいになりゃせんやろか。
今はとっても良い状態よ。餅や惣菜の部門が売り上げを引っ張っているんよ。たくさん直売所が出来始めている中で、とても貢献していると思うよ。」
――直売所があって、地域の人の働き場や出会いの場があるというのは良いことですよね。
「そうそう、最初の目的はそこにあったんよ。やっぱり、村から外へ出て行く人が多いがぁ。それを食い止めたい、他所に人材を出すことはない、地域に残って働けたら良い。そんな仕組みを作りたかったんよ。まあ、外に出た方が稼ぎは良いがね。もちろん、カネは稼がんといかんけどね、ここに来てる人たちは金以上のものを求めているんよ。半分はボランティア精神みたいなもんよね。でも、仲間がいてたのしく働ける。人に感謝される。地域で働ける。これはすごいことよ〜。
ワタシャね、ここの職場は日本一だと思ってるんよ。働く人はお金ばっかりを要求しないでしょ。でも、仕事は完璧!モチの練り方なんて「機械がやってるみたいだ」って言ってもらうぐらいよ。それに忙しい時には自分たちで考えて朝2時からでも出てくるでしょ。「口も達者、手も達者」。本当に日本一だと思いよるよ。
ワタシャ、そんな中に居れてとっても幸せだと思いよるね。娘からもね、「母さんの周囲には良い人ばかりいるね」って言ってもらってる。ほんと幸せ。」

――今もとても良い状態だと思うのですが、今後展開したいことってありますか?今後の夢ってありますか?
「この特産物センターの周囲の田んぼを使わせてもらってね、ハウスを建てて周年で軟弱野菜を地域の老人が作るなんてのが良いと思うんよね。街の人が畑をお金を払って借りてさ。地域のじいちゃんばあちゃんが野菜の作り方を教えるんよ。街の人がセンターに来てから自分で収穫して、その野菜を買っていったって良いじゃないね。ワタシャが村長になったら、そんなことしたいねぇ。もうちょっと若けりゃねぇ。ハッハッハ〜。」
――地域の人が活躍できる直売所、良いですよね。中原さんから赤村の人にメッセージありますか?
「そうね、村に生まれてきたことに誇りを持ってね「赤村に生まれてきて良かったぁ」って思って欲しいし、自分たちの子や孫にそう思ってもらえる地域つくりをして欲しいね。
赤村が良くなれば、田川も良くなる、田川が良くなれば、福岡も良くなる、日本も良くなるんよ。今の時代地球を守るってことを考えても、自分の住んでる地域を良くせんとね。」
――赤村が良くなれば、日本や地球も良くなるって素敵ですね。
「そうよ。それがホントよ。例えば、赤村は竹屋根が多いでしょ。竹林。あれをちゃんと整備して、タケノコを取って、竹細工をして売ったらいいと思うんだがねぇ。そしたら、赤村も大分よくなる、日本も良くなるよ。ホント。」
――他所の人たちへのメッセージはありますか?
「そうね、やっぱり一回赤村にきちょくれってことよね。今、特産の加工をやっているおばちゃんたちが方々で赤村の宣伝をしよるがぁ。そんなのに触れてどんなところだろうなぁ、って思ったら来てみて欲しいね。

それとね、そうやって来た人を村の人が温かく迎え入れて欲しいね。「どこからおいでですか?」とかさ、気軽に声を掛けるような関係。それが良いじゃない。ねぇ。」












